昭和55年6月20日    朝の御理解 ●① ②x2    大坪かよこ

御神訓 心配する心で信心をせよ



 心配の度合いが大きければ大きいほど、神様へ向かう心もまた、大きい。
まぁ打ち込んだ信心がでけるのも、全く神様のおかげであり、いうならば、心配のおかげだ、心配せねばおれないような問題のおかげだと、まあ、合楽では解くわけですね。
いわゆる難即みかげだと、その難のおかげで、その難を通して、本当な事が分かり、信心が分かり、改まることも出来れば、磨くこともでけると、と合楽では説くわけです。
ね、ですから、その前提でありますところの、心配する心で信心をせよと、ね、この心配事があるおかげで、まあ、いうなら、神様様に向かうことになったわけですけれども、始めの頃は、お取り次を頂いても、ご理解を頂いても、やっぱり心配は心配、またその心配を持って帰るような事をする。
心配はお取り次を頂いたら、ここへ置いて帰れと、いわゆるお取り次を願ったら、ね、ここに置いて、そして帰りには、お取り次を頂いて帰れと。
お取り次を願ったら、・・・?お取り次を頂いて帰るということは、神の心、神様の心を頂いて帰ることになるのです。
それが段々おかげを頂いて、実験実証させて頂くうちに、お取り次を頂いたら、もう即、その場で、ご心配は、心配はそこに置いて帰れる、ね、それでもなおかつ心配である。
そこにまぁ、本気での改まる、本気でも磨くということにも、または、信心修行にも、心を込めての信心修行がでけることになるのですから、心配こそ、実はおかげの元であり、同時にいうならばお徳の元なのです。
ね、心配ごとがなくなって、おかげを頂く、やれやれ、というならば、いかにも心は平常心にいうなら、安心がでけます、けれどもその安心はほんなもんじゃ無い。
ね、その安らぎは本当のものじゃ無い、とま、昨日のご理解には、そう説かれましたよね。
心配事がなくなったから、心が安らぐというのは、それは本当のことじゃ無い。
その心配事そのものが、神愛であると分かる時に、安らぐ、もうそれこそ平八のおかげ、平たい心は、もう広がりに広がって行く、この世だけではない、あの世までも広がっていくというのですから、これはどうでもその辺のところを分からしてもらう。
この難儀と信心の浅い薄い時には思うておったけれども、その難儀こそ神愛だと、と頂く時にむしろ御礼こそ言え、それで、不足を言うたり、心配または、悲しんだりしてはおれないということになってきて、ね、いつも平常心でおれれるけいこなんです信心とは。
ね、そのけいここそが、いわば平八につながる、または平常心につながる、安心につながる、その平たい、平たいというかね、平生なその心、そういう心が頂けたときに、もう私はお徳の世界だと思う。
合楽では大体、その、お徳を受けることに焦点を置きますね。
いわゆる心配する心で信心しておる時代から、その心配事に対して、御礼が申し上げれるような時代へと、信心が進んでいく、ね、その心配事によっておかげで改まることがでけ、その心配事によって一心の信心、今まででけなかった修行がでける、ね、お礼になるということです。
ね、心配する心で信心をする、ね、そこからおかげを頂いて神様が分かる、ね,段々お願いお取り次を願わしてもろうて、お取り次を頂いて帰る、今日は何を頂いて帰ったか。
皆さんこうやって、教えのま、ポイントというかね、芯になるところを、ま、いうなら、メモして帰られる、ね、ですから、それを生活の上に実験していくということ、そこから実証が生まれてくるおかげ、信心がいよいよ有り難いもの楽しいものになっていく、その過程である。
先日から、こんなご本をある信者さんが持ってきて下さった。
そこの記念祭のために、そこの先生が書かれた本、もうこれは、おかげの泉の合楽をしておられる先生らしいんですけれど、まるきり合楽の教えを下敷きにしたような、もう、そのままの、こんなに大きくその教えをまあ、書いてある言葉を、でその下に説明をしてある。
面白いなーと思ったけれども、まあ、合楽の教えがこのようにして、ま、お役に立っておるということは有り難いことだと、けどもそれが私の師匠がかく教えたといったようにかいてあるところちょっと引っかかるですよね。
これは合楽の、おかげの泉から、これは合楽の親先生の言葉とかというふうには書いてない。
自分が練りだしたように、または、師匠から習うことのように、もう合楽の言葉をそのまま、これに載せてあります中に、●② 味苦魅楽というのがあります。 結局その自分のものではないですから、本との説明がでけてないわけですよね。
ね、これなんかは字引を引いてもないでしょうし、またよそにあるはずはないのですけれども、結局私が神様から頂いた御教えですから、合楽のものなんです。
その味苦魅楽の、というのは、あの、味の素の味ですね、それから苦しみの苦です、いわゆる苦しいことは苦しいです、病気でもしとりゃ苦しいんですけれども、苦しいけれども、その苦しい中に味わいを分かる、今日のご理解で言うと、心配事がある、けれどもひとたび自分の心を神様に向け、合楽理念に基づくと、これは本当に御礼を申し上げんならんことだなー、神様がこんなにして鍛えて下さるんだなーと思うたら、もうそれこそありがた涙がこぼれるのである。
ね、いわゆる苦しいことの味わいを分からしてもらい、魅楽とは、ね、楽に魅せるなと書いてある。魅せられるなという意味なんです。
味苦魅楽、味欲の味、魅力の魅、魅楽、あるときに、みらくということも頂いた。
身という字ね、お体を大切に、御身大切にという身です、身楽、ね、与えられる身楽、けれどもその身楽に没頭してはならない。
ね、という意味なんです。
ま、今日のご理解は、あの楽に魅せられるなということです。
ね、例えばパチンコならパチンコやらにもうせにゃおられんごつなった。もう楽に魅せられてしまうとると、ね、もう博打なんかそうだと思うです。
ね、それはやはり神様が与えて下さる楽ですから、ね、悪いことじゃ無いけれども、それに、いうならぼうけてしまう、それに、いうならば、仕事も忘れてそれに没頭するといったようなことはやはり、楽に魅せられておるとですね。
遊び好きと言うです。遊び好きになっちゃいけんから、だから楽には魅せられるな。
ね、君子あやうきに近寄らず、といったようなシナの言葉がありますけれども、ね、その近寄らんといったような精進じゃ無い。
ね、あるお酒が好きでいつもお酒で失敗する人が、二人はもうこりゃ、お酒を止めにゃいかんばい、いっちょ本気で、お酒をやめようじゃないかというて話し合ったという。
一人に人は、ね、酒屋のある前を通らずに、裏道を通って帰ったという。
も、君子あやうきに近寄らずである。
一人の人は、もう、わざと酒屋の前を通って、酒の臭いのぷんぷんする中を通って帰った。
結果は、裏道を通って帰った人は、また酒におぼれたという話です。
ね、だから、酒の中に沈められておっても、呑まんちゅうたら呑まんというこの一心発起が必要なんです。
味苦魅楽もやっぱそうです。ね、楽には魅せられん、もう、楽なもの、はあ、それは楽になるけど、こうすりゃ魅楽だけれども、こうすれば、とその、思うけれども、ね、そこを生神金光大神で貫かしてもらう所に、合楽で言われる貫くというのはあるのです。
私はこの味苦魅楽を、読ませて、あの説明を読ませて頂いたら、結局は、は、自分のものではないということはこんなもんだな、と思ったんですけれども、苦しみの、修行の味わい、苦しみの味わいということは解いてありますけれども、ね、楽な事に魅せられれてはならないぞということを説明が加えてないんです。
ね、これはまぁいうならば、苦労を修行と頂きゃ、またはそれが神愛と分かれば、むしろお礼を申しあげる様な心の状態が開けてくるのが、いわば苦しみを味わうということでしょう。
ね、いわゆる魅楽ということは、ね、いわゆる、楽に、せっかくそうして精進したそういう信心が、またいっぺんにガラガラと崩れてしまう、ね、楽に魅せれてはならない、というてね、与えられる楽は、これは有難しである。
●① ね、耳掻きのそこにありけり日向ぼこ、というのがありますね。これは私のみ教えの中にあります。ね、日向ぼこをしとった、どんどーんとなるぐらいに、良い気持ちんとこ、すとそこに誰かが耳掻きを置き忘れておる、ね、そういうときに耳を掻く、気持ちがいいでしょう。ね、許されてなのです。今日はいっちょ気持ちのよかこつしょう、って自分からするのではない。
ね、そういうところを合楽では人間が人間らしゅう生きれる手立てというのは無茶苦茶というのじゃないのです。
ね、そこにはちゃっと道を分かり道が付けられた時の生き方を、いうならば、人間らしいといったふうにも説きますね。
お互いの信心がです、ね、心配する心で、信心をさせて頂いていくうちに、いわゆる、味苦魅楽の信心味わいが身に付いてくる、だから信心が楽しゅうなってくる、ね、ただ、心配する心で、心配だから一生懸命お参りをしておるとというおかげだけでは、ね、おかげを頂いてやれやれという安心はでけるけれども、その安心は、その平たい心は、ほんとにお徳につながるとか、末の末までとかという、八の字に広がりに広がるおかげにはつながらないんだと、、ね、それとは反対に、もうほんとに心配、難儀、痛いかゆいを感ずる時に、その中に味苦、いわゆる苦しみの味わいを分からしてもらい、そしておかげを頂いておっても、頂いても、なら、信心させて頂いておって魅楽とか、ね、または楽に魅せられるといったような、ことのない信心が、段々そういううちに出来てくる。
心配する心で一生懸命信心しておる間に、そういう信心が身についてくる。
ね、そこにです、いうならば、神様が願いとされる本当のおかげ、ほんとのいうならば、どういう時であっても、心が平常でおれれるという心が、開かれることのためにその心配を通して、身に付けていかなければなりません。
それにはいわば味苦魅楽の信心がいる。
ね、苦労の味わい、そして、楽に魅せられない、いうならば、信の力を頂かせて頂いて、おかげを、お徳を受けることになります。
ね、これは合楽でとかれるその前提のところ、心配する心で信心をせよ、ね、心配に打ち込むと、ね、●② 心配に打ち込むな、信心に打ちこめ、と四神様の御教えにあります。
ね、氏子が心配すると、神が心配せんですむとも仰せられます。
ね、心配はも、神様にしてもらう、ね、心配はここに預けていく、そして頂いて帰る御教え、それを本気で行じさせて頂くうちに、その味苦魅楽も、身についてくるのじゃないでしょうかね。どうぞ。